震災後の能登半島を訪ねて|2025年の能登と2026年の輪島

旅の記録

  ※画像は、撮影した写真をもとにAIで作成したイメージです。

こんにちは! Mamiyです(^^)/

今回は、2025年と2026年に訪れた、震災後の能登半島の記録です。

何度も足を運んだお気に入りの場所が、どのように変わっていたのか。

実際に見て感じたことを、写真とともに残しておきたいと思います。

はじめに

2024年1月1日に発生した能登半島地震。

年末の慌ただしさも一段落し、家族そろって新年を迎え、ほっとひと息ついていた人も多かったことでしょう。

そんな元日の夕方に突然発生した大地震。

その知らせは、日本中に大きな衝撃を与えました。

私たち夫婦にとって、能登半島は何度もキャンピングカーで訪れてきた、お気に入りの場所です。

美しい海岸線や里山の風景、輪島朝市での買い物、地元の方々とのやり取り。楽しい思い出がたくさんあります。

そんな能登半島が、大きな地震とその後の豪雨によって甚大な被害を受けました。

テレビなどで被災地の様子は見ていましたが、実際にはどのような状況になっているのだろう。

2025年5月、震災後初めて能登半島を訪れました。

そして翌2026年10月には、再び輪島を訪ねる機会がありました。

今回は、2度の訪問で実際に目にした風景と、そのとき感じたことを記録しておきたいと思います。

2025年5月、震災後の能登半島を巡る

道路の復旧だけでも大変なことだった

能登半島の東側の海岸線を北上し、半島の先端を目指しました。

道路は傷みが激しく、片側交互通行の場所もあちこちにありました。

沿道には倒壊した家屋が残り、土砂崩れの跡や、復旧工事が続いている場所も目にしました。

「2025年5月撮影。左は通行規制のある道路、右は大きく崩れた山肌。」

私たちは阪神・淡路大震災を経験し、その後、街が復興していく様子も見てきました。

正直なところ、最初は「まだこんなに被害が残っているのか」と驚きました。

けれど、走りながら道路の状況を見ているうちに、考えが少し変わりました。

地震によって道路が寸断され、被災地に入ることさえ難しかったのです。

道路が通れなければ、救援物資を運ぶことも、倒壊家屋を片付けることも、復旧工事を進めることもできません。

ここまで道路を修復するだけでも、どれほど大変な作業だったことでしょう。

そんな中、何度も目にしたのが、『復興への援助をありがとうございます』と書かれた看板でした。

被災地の厳しい状況を目の当たりにしているだけに、その言葉が心の奥に響きました。



能登半島の先端、聖域の岬へ

能登半島の先端にある「聖域の岬」にも立ち寄りました。

以前訪れたときには、空中展望台やおしゃれな売店などがあり、観光客で賑わっていた場所です。

しかし、このときは休業中でした。

「2025年5月撮影。左は聖域の岬の空中展望台、右は崖下に建つランプの宿」

崖の下にある「ランプの宿」は、上から見る限り、建物の外観はきれいに見えました。

お客さんは戻ってきているのでしょうか。

そんなことを思いながら、周辺の景色を眺めました。

以前訪れたときの聖域の岬の様子は、こちらの記事に残しています。

震災前の空中展望台やランプの宿などを、写真とともに紹介しています。


途中、群生しているワラビを見つけ、思わず車を止めて山菜採りを楽しむひと幕もありました。

道の駅狼煙も休業中で、近くには仮設住宅が立ち並んでいました。

以前、道の駅狼煙から禄剛崎灯台へ歩いたこともあります。

そのときの能登半島最先端の風景も、こちらの記事に残しています。

「禄剛崎は能登半島の最先端!狼煙灯台と広場の爽やかな空気感を堪能」

白米千枚田はどうなっているのだろう

能登半島の先端から、今度は西側の海岸線を南下しました。

気になっていたのが、白米千枚田です。

海へ向かって幾重にも重なる、美しい棚田。

その姿は、何度訪れても心に残る能登の風景でした。

「2025年5月撮影。震災後の白米千枚田。」

棚田の形は、なんとか残っているように見えました。

けれど、田植えが行われていたのは一部分だけ。

地震によって水を蓄えることが難しくなった場所もあるのでしょうか。

以前とは違う風景に、寂しさを感じました。

道の駅は規模を縮小しながらも営業されていました。


震災前の白米千枚田には、何度も訪れています。

季節によって違った表情を見せてくれる、美しい棚田でした。

以前訪れたときの風景を、こちらの記事に写真とともに残しています。

変わり果てた、いつもの輪島の波止場

次に向かったのは輪島です。

私たちには、輪島朝市のほかにも、お気に入りの場所がありました。

いつも魚釣りや車中泊を楽しんでいた、海辺の広々とした波止場です。

ところが、久しぶりに訪れたその場所は、以前とはまったく違う姿になっていました。

左は、2025年5月に撮影した震災後の波止場。右は、震災以前の風景です。

地面は大きく割れ、舗装が波打つように変形し、堤防も隆起していました。

何度も訪れた、よく知っている場所。

それだけに、目の前の光景には言葉を失いました。

輪島朝市の様子も気になっていました。

けれど、夫が「見たくない」と言うので、その日は朝市には足を向けず、近くを通り過ぎるだけにしました。

あの賑やかな朝市は、いったいどうなっているのだろう。

元気いっぱいに呼び込みをしていたお母さんたちは、今ごろどうしておられるのだろう。

そんなことを思いながら、輪島を後にしました。

2026年10月、再び輪島へ

それから約1年半。

2026年10月22日、再び輪島を訪れました。

今回は、夫が駐車場で仮眠している間に、私ひとりで朝市通りを見に行くことにしました。

あの賑やかな朝市通りが……

目の前に広がっていたのは、かつての面影がほとんどなくなった街並みでした。

通りの両側に並んでいた建物の多くが姿を消し、あちこちに空き地が広がっていました。

左は2017年の輪島朝市通り。右は2026年10月22日に撮影した同じ通り。

写真を見比べると、左側に写っているオレンジ色の建物が今も残っています。

その建物が、ここが確かに同じ場所なのだと教えてくれました。

通りは残っているのに、周囲の風景はまるで別の場所のようです。

かつて、この通りには朝市のお母さんたちの元気な声が響いていました。

呼び込みが少しうるさく感じられたこともありましたが、今ではその賑やかささえ懐かしく思い出されます。

残っていた古い酒屋さん

通りには、古い木造の酒屋さん『日吉酒造店』が残っていました。

周囲が大きく変わってしまった中で、昔ながらの建物が残っていることに驚きました。

外から見るとほとんど無傷のようでしたが、後で調べてみると、地震によって酒蔵が倒壊し、店舗にも大きな被害があったことを知りました。

建物が残っているからといって、被害がなかったわけではないのですね。

こちらの記事には、店主さんの被災体験や、酒蔵を再建したいという思いが詳しく紹介されています。
「この地で必ず酒造りを再開させる」日吉酒造店・杜氏の決意

思い出の『まだら館』、建物は姿を消して

輪島朝市から少し歩いたところに、「まだら館」という郷土料理のお店がありました。

私たちは何度か食事をしたことがあります。

彩りの美しい郷土料理がとても美味しく、昔ながらの建物も魅力的なお店でした。

震災前の『まだら館』。趣のある建物と店内、そして美味しかった郷土料理。

店内には立派な調度品が飾られ、カウンター席の上には大きな神棚。

手入れの行き届いた庭も印象に残っています。

お客さんも多く、いつも賑やかで、お店の方々も愛想よく接してくださいました。

ところが今回訪ねると、あの建物はなくなっていました。

2026年10月撮影。かつてのお店の建物はなくなり、看板と白い塀が残っていました。

あの素敵な空間が、もう無いのかと思うと、とても寂しい気持ちになりました。

こうして昔の写真を見返してみると、あの場所で食事を楽しんだ時間が、懐かしく思い出されます。


さいごに

2025年に能登半島を巡り、2026年には輪島朝市の通りを歩きました。

訪れた先には、復旧工事が進んでいる場所もあれば、まだ被害の跡が残る場所もありました。

テレビの映像で見ていたつもりでも、実際に訪れて初めて気づくことが、たくさんありました。

道路ひとつを修復するにも、どれほどの時間と労力が必要だったのか。

そして、建物や道路が元に戻ることと、そこで暮らす人々の生活が元に戻ることは、きっと同じではないのでしょう。

私たちにできることは限られていますが、訪れた先で少しずつでもお金を使うことも、ひとつの応援になるのではないかと思っています。

あの元気な輪島朝市のお母さんたちは、今ごろどうしておられるのでしょうか。

一日も早く、能登の皆さんに穏やかな日常が戻ることを願っています。


震災前の輪島朝市の思い出は、こちらの記事に当時の写真とともに残しています。

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